学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「にごめ」

2022.1.21

具材  そこそこ昔のことですが、義母に「おたんやじゃけえにごめ炊いたんよ。食べに来んさい。」と言われました。おたんや??にごめ??雑炊のこと??初めて聞く言葉に妄想が膨らみます。ところが出されたのは「小豆とサイコロ状の野菜の炊いたん」で、お米は入っていませんでした。これは、おせち料理の「ごまめ」が「豆」ではなかったのと同等の驚きでした。
  その日は1月15日。当時は成人の日でしたが、親鸞聖人の命日の前日でもあります。命日の前日を「お逮夜(たいや)」といいますが、いわゆる安芸門徒の間ではそれがなまり、「おたんや」と呼ぶようになったようです。そして、「おたんや」の前後3日間は精進料理を食べるのが習慣だったそうです。昭和の終わりごろまでは、漁師さんも殺生をしないという理由で漁を控え、魚屋さんもお休みだったとか。そんな風習も時代の波に押され、いつしか途絶えたようです。
 義母に教わったレシピを思い出しながら、久しぶりに「にごめ」を作ってみました。精進なので出汁は昆布で。見た目は良い感じに出来上がりました。見た目は・・・、見た目大事ですから。ただ、どうしても「にごめ」というのでしょう。「煮込め」から来ているのか、それはよくわかりません。
 浄土真宗に精進の戒律はありませんが、煩悩まみれの日々で、1日くらい命と向き合う日があってもいいのかな、と思いました。

文化財課学芸員 岡野 孝子

写真上:材料(里芋、人参、干し椎茸、こんにゃく、油揚げ、蓮根、大根、ごぼう、小豆)
写真下左:「煮込め!煮込め!」
写真下右:完成!見た目は悪くない

煮込み中にごめ

「くまー」

2021.12.27

足跡 中央公園サッカースタジアム(仮称)建設に伴う発掘現場では、昔の人々の生活の痕跡だけでなく、現在の動物の痕跡も多数見られます。日々飛んでくるスズメ、ハト、カラス等の鳥や夜や明け方に訪れるノネコなどです。
 市街地の発掘現場では上に挙げた動物達が主たる登場動物ですが、郊外の調査地ではイノシシ、シカ、アライグマなどの足跡を見ることもあります。
 さて、私が以前いた北海道の発掘現場で一番多くみられるのはシカとキツネの足跡と糞です。キツネは寄生虫のエキノコックスに汚染されている場合があるので注意が必要です。熊1でも最も注意が必要な動物は、そう、ヒグマです。
 北海道白滝村(現遠軽町)の旧白滝15遺跡で調査していた時の事です。雨で現場作業を中止にしていたところ、黒いものが調査区をヒョコヒョコと動いていました。私はプレハブの中にいたので距離は30mぐらいはありました。襲われる可能性は低かったのですがとっさの時にはその人の性格が出るもので、「あれは黒いけどシカだ」、と逃げの思考に陥りました。が、どう考えても熊です。仕方なく(?)カメラにそこにあった一番の望遠レンズ、105㎜マクロを装着して撮ったのがこちらです。露出はカメラ任せ、ピントだけ注意して熊2撮りました。1歳ぐらいの若熊で山に帰る道がわからずパニックになっていたようです。親熊は見当たりませんでした。ハンターさんに連絡して来てもらい、爆竹を鳴らして山へ帰そうとアレコレしてもらいましたが、残念なことに翌日市街地に出没したところを撃たれてしまいました。

文化財課主幹 中山 昭大

写真上:中央公園発掘現場の砂地に残るスズメの砂浴び跡。
写真中:北海道白滝村(現遠軽町)旧白滝15遺跡に現れたヒグマ。
写真下:現場プレハブの脇を走る若熊。

「行楽日和」

2021.11.26

仁王門 気が付けば11月下旬に突入し、各地で紅葉が見ごろを迎えています。私は、先日宮島に行き、「弥山」に登ってきました。
 弥山は、標高535mで大同元(806)年に弘法大師空海により開基されたと伝えられています。弥山山頂に行く方法としては、宮島ロープウェイを使い獅子岩駅まで行き、山頂まで歩くか、3つの登山道(大聖院コース・紅葉谷コース・大元コース)からトレッキングする方法があります。私は、往路は大聖院コースを復路は紅葉谷コースを選択しました。大聖院コースでは、弥山のふもとにある古い寺院「大聖院」の傍から登山道が始まり、途中には厳島八景のひとつである「白糸の滝」や「仁王門」など美しい景色や貴重な景色文化財を見ることができます。しかし、このコースはなんと約2000段の石段が続いており、運動不足の私にはなかなかしんどかったです…。

 私が訪れた日は絶好の行楽日和で、頂上からの眺めは本当にきれいでした。初代内閣総理大臣である伊藤博文は、たびたび弥山を訪れていて、頂上からの眺めを「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」と感嘆したそうですが、本当にその通りだと感じました。
 今の時期、弥山に限らず紅葉がきれいな場所はたくさんあると思うので、皆様も身近な山に登ってみてはいかがでしょうか。山登りをする際は、服装や虫対策などをしっかり講じてから、登ってくださいね。

文化財課学芸員 日原 絵理

写真上:仁王門 2004年の台風で倒壊し、2012年に再建された。
写真下:弥山頂上からの眺め。似島・宇品方面を望む。

「秘密戦器材「セ」号車について」

2021.10.12

 防衛省戦史研究センター史料閲覧室に「第五十九軍作命甲綴」(文庫 柚 153)が保管されており、昭和20年6月から中国地方の防衛作戦を司った第五十九軍の作戦命令のうち8月6日の山陽作命甲第二十号から9月5日の山陽作命甲第四十五号までが綴られて残っています。
 ちなみに作命甲は作戦、作命乙は情報、作命丙は後方、作命丁は兵站と作戦命令を内容により区分していたようです。

 その作命綴りを読んでいく中で、一つの作戦命令が目に留まりました。
この作戦命令は鉛筆書きで、日本のポツダム宣言受託を受けて、広島の第五十九軍司令部の援助に来ていた人員に対して大阪の原隊に戻るように命令しています。

 山陽作命甲第三〇号
 第五十九軍命令   八月一八日 一二、〇〇
           於  廣島

一, 楠作命甲第百十五号仝第百十六号ニ依ル
   司令部業務援助人員冨成少尉以下五
   名(「セ」号車ヲ含ム)ハ至急現所属ニ復帰
   スベシ

  下達法   口達
  下達先   報道部
  報告先   第十五方面軍

 楠(クスノキ)作命とは大阪にあった第十五方面軍が発した命令のことで、その命令そのものの資料が残っていないので、いつ出た命令かはわかりませんが、第五十九軍司令部の支援の為に発令されたもので、参謀部、軍医部、獣医部、報道部、工兵中隊、電信隊、防疫給水機関、野戦病院などの人員が派遣されており、広島への原爆投下を受けて発令されたであろうことは想像できます。
 ここで、気になるのが「セ」号車が広島に派遣されていたことです。

「セ」号車とは、陸軍科学研究所で開発された秘密戦器材で、宣伝用特殊車両です。内部には、印刷機、印刷材料、強力遠距離放声装置、無線電話機、録音装置、発声映写装置などが搭載されていました。(注)
 なぜ第五十九軍の上位部隊の第十五方面軍が広島に秘密戦器材を送り込んだのか、その意図は謎です。また、「セ」号車が被爆後の広島で活躍したとする記録も私は見たことはありません。

 陸軍が被爆地の広島に秘密戦器材を送り込んだことはあまり知られてなかったですが「第五十九軍作命甲綴」により、その存在だけは明らかになりました。
 今後も機会があれば、継続して調査をしてみたいと思います。

注:松野誠也「日本陸軍の秘密戦器材-防諜器材・諜報器材・謀略器材・宣伝器材の実態-」(『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報』第6号、2020年9月)

文化財課主幹学芸員 秋政 久裕

航空写真司令部

写真左:被爆後の広島城跡 広島城跡の本丸に第五十九軍司令部があった。城跡内には救護用のテントや車両も確認できる。(中央上部の堀に囲まれた所が広島城跡) 昭和20年8月頃か
米軍撮影 広島平和記念資料館提供
写真右:第五十九軍司令部・中国軍管区司令部庁舎跡 昭和20年秋
米軍撮影 広島平和記念資料館提供

「野生動物にご注意!」

2021.9.9

土塁 文化情報マガジン「to you」令和3(2021)年9月号の「もぐりんが行く!文化財めぐり」で、旧広島陸軍兵器補給廠(しょう)似島火薬庫を取り上げて紹介しています。 昭和4(1929)年に設置された似島火薬庫は、竣工から92年、使用されなくなってから76年が経過し、劣化が進んでいます。取材に訪れた時には、鬱蒼(うっそう)とした雑木林の中に埋もれるような状態にありました。

 人の気配がしなくなって久しいからか、一帯は野生動物の生息範囲となっているようです。奥の旧歩哨(しょう)所を確認するべく、背丈ほどもある雑草をかき分け、四苦八苦しながら進んでいると、イノシシの家族と鉢合わせするというアクシデントがありました。 1m近い成獣と3頭のウリ坊が見えました。驚いたのは、自分だけでなくイノシシたちも同じだったようで、鳴き声を出しながら慌てて山深い方に逃げて行きました。とっさのことで呆然(ぼうぜん)と立ち尽くすだけでしたが、事なきを得ました。歩哨所
 船着場には、イノシシ出没に対する注意喚起の張り紙が設置されていました。訪問される際は、十分ご注意ください。

文化財課指導主事 福島 忠則

写真上:旧弾薬庫周囲の荒れた土塁
写真下:雑木林の中に忽然と現れる旧歩哨所

「かたつむり発掘?」

2021.8.31

 発掘調査で見つかる遺物のほとんどは土まみれなので、土を落としてから文様などを観察して持ち帰ります。先日、出土した大量のレンガをひとつひとつ確認していると、レンガや木炭の表面から1mm程度の非常に小さな貝殻をいくつか見つけました。この貝殻が昔図鑑で見たかたつむりの子どもにそっくりで、レンガを埋めた時にかたつむりが入り込んだのかと思いましたが、周囲の調査員の意見を聞くうちに別の可能性が出てきました。
 現在はレンガ同士の接着にはモルタルが使われることが多いのですが、今回発掘したレンガの表面には漆喰が残っているので、漆喰を塗って固定されていたと考えられます。漆喰の主成分は水酸化カルシウム(消石灰)で、その原料は炭酸カルシウム(石灰石)です。石灰石は貝、サンゴなどの殻が堆積したものと言われており、中から化石が見つかることもあります。そして、今回見つけた貝殻は石灰石に含まれる巻貝の化石ではないかと推測できるとのこと。もしかすると、他にも化石が含まれていたけれども石灰石を砕く際に小さな貝殻だけ形が残ったのかもしれません。
 埋蔵文化財の発掘調査は人間が暮らしていた時代を調べるので、今まで化石を見つけたことはなかったのですが、意外なところから見つかることもあるのですね。

文化財課主事 兼森帆乃加

  貝殻
写真:小さな貝殻


「古代のものづくり」

2021.8.17

土器 文化財課では、「古代生活体験(火おこし、弓矢、石器体験など)」や「古代のものづくり体験(土器づくり、埴輪づくりなど)」を公民館や学校などで実施し、文化財を身近に感じてもらう活動をしています。

 先日、この事業の準備として、弥生土器を試作しました。本物の弥生土器は、600~800度の野焼きで焼きあげられた素焼きの土器で、ロクロは使わず、輪積み技法という方法で作られています。土器の表面には、箆(へら)や櫛、貝殻などで文様がつけられていますが、縄文土器に比べると簡素な外見をしています。
 私たちが体験で作る土器は、出土する土器の3分の1くらいの大きさ埴輪で、焼かなくても硬くなる粘土を使用して製作しています。工程が簡略化され、楽に作ることができるはずですが、休憩なしで集中してやっても2時間程度はかかってしまいます。また、自分がイメージしているような形に成形するのはとても難しく、当時の人々の技術力の高さに驚くばかりです。
 土器のほかに人物埴輪も何度か作ったことはありますが、15cm程度のものを作る場合でも、2時間はかかるうえ、当時の人々が製作したように精巧に作るのは至難の業です。

 こういった事業を皆様の近くの学校や公民館などで開催されることがあれば、ぜひ参加してみてください。きっと教科書などで勉強するよりも楽しく、歴史を学ぶことができると思います。

文化財課学芸員 日原 絵理

写真上:左側が私の製作した土器。右側は遺跡から出土した弥生土器。
写真下:歴代の職員が製作した埴輪たち。製作者の個性が出ています。

「学芸員の仕事…例えば企画展」

2021.7.26

鞍 ネタがないので思い出話をします。広島城の学芸員は年に一度企画展を担当します。担当者の数だけ考え方や手法がありますが、自分は、やや「学」よりも「芸」で勝負するタイプでした。
  たとえば、昔の馬具を展示しました。
木を組み合わせた不思議な形の鞍(くら)や、スリッパみたいな鐙(あぶみ)が謎です。なぜこんな形なのか、どうやって使うのか、これは体験せねばうまく伝えられない。せっかくだから、展示会場で甲冑を着て颯爽と駆ける私の映像を流すことにしよう。いてもたってもいられず、和式馬術の修行に通いました。すぐにあの鐙の形の意味がわかりました。部品
おしりを浮かせて鐙の上で踏ん張る「立ち透かし」のためでした。鞍は、甲冑を着て自在に馬を操るのに適した仕組みになっていることもわかりました。体験したことは、わかりやすい展示には大いに役立ちました。ただ「わかった」と「できる」は別です。ちなみに走ったらすぐ振り落とされました。そういうわけで、会場に映像は流れませんでした。



 たとえば、甲冑の展示をしました。
 どこの博物館でも甲冑と言えば、ケースの中でいかめしく座っています。それはそれで格好いいけど、ここで「芸」をしたくなりました。自慢の甲冑を提供してくださった方に頭を下げて、バラバラにしました。兜はひっくり返してみました。こうすることで、仕組みや細工を伝えることができました。日本の武具武器は、命のやり取りに関わる道具でありながら、見えない部分にまで伝統工芸の細工が施されています。熱い思いを持って作った職人さんが少しでも浮かばれたかな、と思います。
 ただ一つ、大きな失敗をしました。広島城の企画展示室は4階です。階段しかありません。甲冑は重いということが頭から抜けていました。調子に乗ってたくさん展示したことを著しく後悔した企画展でした。
 
鞍 文化財課学芸員 岡野 孝子

写真1:鉄でおおわれた戦闘用の鞍
写真2:こう見えて何一つ無駄な部品はない
写真3:展示の最後はカープでしめるのがマイルール

「ところ変われば」

2021.7.7

発掘 現在、サッカースタジアム(仮称)建設に伴う発掘作業が基町地区の中央公園で進められています。私は昨年度からその調査のため北海道から出向してきています。
 ところ変わると土も違い、掘り方、道具も変わってきます。まあ、土だけでなく地形や時代、今までの伝統も違いますからね。広島市内の土は花崗岩由来のマサ土や砂が大部分で、結構硬く、そしてもろいです。一方北海道の土は火山灰由来の黒ボク土が多く、比較的柔らかで、ちょうど畑の土みたいな感じです。
 写真は北海道浦河町での発掘作業の一コマです。みんなが道具並んで一斉にしゃがんで土を掘っています。手に持っている道具はシャベル(移植ごて)です。大きく土を掘る場合はスコップを使いますが、基本的に並んでシャベルです。寒そうに見えますが、これでも5月の風景です。写っていませんが、空にはオオジシギが巣作りのために飛び回っています。
 広島市の発掘では鍬が活躍します。鍬を振るうと周りの人にはそれなりに危険が伴いますので、みんなで並んで掘る掘り方にはなりません。一人が鍬を振るい、後の人がジョレンで土を集めるという作業になります。細かい所はガリと呼ばれる三角ホーを使います。この道具は優れもので、手首を曲げたりせず腕全体の力を使って掘れるので関節を痛めにくいです。
 このように使う道具や掘り方は違いますが、遺跡を丁寧に調査するという点においては何ら変わりがありません。このコロナの折で今は難しいですが、違う地域の調査を見て「ほー、へー」と感心する体験は貴重なので、皆様もどこかよそに行ったら発掘現場をのぞいてみてください。
 北海道にお越しの際は札幌の東隣、野幌(のっぽろ)森林公園内にある北海道立埋蔵文化財センターへぜひお越しください。入館無料で道内の考古資料が一堂に(ちょっと大げさ)皆様をお待ちしています。近所には北海道博物館、野幌森林公園自然ふれあい交流館もあるので併せてどうぞ。

文化財課主幹 中山 昭大

写真上:北海道浦河町 昌平町遺跡の発掘調査 / 写真下:左からジョレン、鍬、手箕、両刃鎌

「直角に曲がる川」

2021.7.5

源流 文化財課のある東区光町界隈を流れている川に天神川があります。
 平成16年(2004)に新規開業した、JR天神川駅の駅名の由来となった川でもあります。
その源流は東区山根町の尾長天満宮の裏の二葉山にあり、天満宮(=天神さん)から流れ出ている川なので天神川と呼ばれ、JR天神川駅の傍を通過し、府中大川へと流れ込む約3kmの川です。現在はほぼ暗渠化され、川の流れを見ることができる場所はごくわずかしかありません。
 光町界隈の天神川はすべて暗渠化され、一見しただけでは天神川の場所すらわからない状態にもなっています。今は暗渠となった天神川に沿って、文化財課の周辺を少し歩いてみると不自然に屈曲する場所があります。
 二葉中二葉中学校の北東端は天神川の暗渠の上が歩道となっており、ここで天神川は直角に流れを変えています。その先の、愛宕町の旧西国街道にかかっていた俄羅々々橋(がらがら橋)跡へ向かう手前でも直角に流れを変えています。これらの屈曲は、明らかに人工的に変えられたものです。
 ではなぜ何度も屈曲する流れにする必要があったのでしょうか?
実は、戦前には広島駅の北側、尾長天満宮から光町一帯は陸軍の東練兵場がありました。練兵場とは、その名のとおり兵隊の訓練をする広場です。この練兵場の境界を天神川は流れていますので、陸軍が練兵場の邪魔になる天神川の流れを変えたのではと推測しています。
橋  防衛省防衛研究所に残る陸軍の資料の中に、それを裏付ける資料が無いか探してみたのですが、明治31年(1898)に東練兵場の土地を整地した際の資料しか見つけることはできませんでした。
 直角に曲がる天神川の謎は、今後も機会があれば調べてみたいと思います。




文化財課主幹学芸員 秋政 久裕地図

写真1:天神川源流 注連縄のあたりから水が湧き出している / 写真2:二葉中学校の北東隅 天神川の暗渠の上が歩道 / 写真3: 俄羅々々橋(がらがら橋)跡の手前 白い部分が天神川の暗渠。写真右側を進むと俄羅々々橋跡 / 地図:青線が天神川の流路

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