学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「ひな祭り」

2022.3.16

灯篭1 ひな祭りは、女の子の健やかな成長を祈って行う年中行事です。ひな祭りを行う3月3日は「上巳(じょうし)の節句」といい、五節句のうちの一つであり、桃の節句とも呼ばれています。
 明治の改暦以後は、新暦の3月3日にひな祭りを行うのが一般的ですが、旧暦の3月3日(新暦だと4月3日)に行う地域もあります。
 ひな祭りは、平安時代に貴族の間でされていたお人形遊び(ひいな遊び)や、紙・わらなどで作った人形にけがれを移して海や川に流す習慣が起源になったと言われています。 現在のようなひな祭りの形態が整ったのは、江戸時代中頃以降となります。このころから、女の子が誕生した際に初節句を祝うため、ひな人形が盛んに贈答されるようになり、娘が他家に嫁ぐときにはひな人形を持参するようになりました。また、ひな壇が設けられ、三人官女や五人囃子も登場し、人形や雛道具がどんどん豪華で精巧になっていきました。

 ところで、皆さんは、ひな人形の飾り方を気にしたことはありますか。実はひな人形の飾り方は、時代や地域によって異なります。江戸時代は、日本では左を上位とする考え方から、正式な場では、男性が左側、女性が右側に座るのが通例でした。ひな人形も通例に従って、向かって右に男雛、左に女雛を並べることが多かったと考えられています。 明治以降になると男性が右側、女性が左側に並ぶ西洋の風習が取り入れられるようになり、皇室でも天皇と皇后の位置が逆転するようになります。ひな人形もこれに習い、向かって左に男雛、右に女雛が置かれるようになりました。地域差でいうと、京都では伝統に則して、古式の並べ方をされているようです。


文化財課学芸員 日原 絵理

画像:『雛人形』一竜斎国盛 安政4年(1857) (国立国会図書館蔵)
参考文献:『和宮ゆかりの雛かざり』国立歴史民俗博物館

「常夜灯」

2022.2.7

灯篭1 昨年12月、新型コロナウイルスの感染拡大が少し落ち着いたタイミングで、広島城遺跡埋蔵文化財発掘調査に伴う資料調査と情報収集のため香川県を訪れました。
 宿泊先の丸亀市街では、漁港の脇に、大きくて立派な灯籠(とうろう)がありました。正式名称は「金毘羅講燈籠(こんぴらこうどうろう)」のようですが、地元では「太助灯籠(たすけどうろう)」と呼んでいるそうです。
 江戸時代中期、「一生に一度は、こんぴらさんへ」と、琴平の金刀比羅宮(愛称:こんぴらさん)参詣(さんけい)が盛んになります。当時、庶民の旅行は禁じられていましたが、社寺への参拝としての旅は許されていました。 「お伊勢参りの次はこんぴら詣(もう)で」だったようで、多くの参詣者が押し寄せました。そのため、琴平まで金毘羅五街道と呼ばれる丸亀街道、多度津街道、高松街道、阿波街道、伊予・土佐街道が整備されます。その中で、最も多く利用されたのが丸亀街道でした。 丸亀街道の出発点は、丸亀港の船着場「新堀湛甫(しんぼりたんぽ)」でした。この地に天保年間(1832~38年)に建立されたのが、「金毘羅講燈籠」です。台座に「江戸講中(えどこうじゅう)」、灯籠側面に寄進者・世話人1,357人の名前が刻まれていることから、江戸在住の人々がお金を出し合って建立したものと分かります。 寄進者中で最高額を寄付した「塩原太助」の名にちなんで、「太助灯籠」と呼ばれるようになりました。参詣客を乗せた船は、夜間この燈籠に灯る火を目印に入港していました。現在も夜になると明かりが点灯し、常夜灯として使用されています。

灯篭2 広島にも、安佐北区可部に市指定重要文化財の鉄燈籠(かなどうろう)があります。浮き彫りで「金比羅大権現」「鋳物師三宅惣左衛門延政」とあるように、可部の鋳物師三宅氏が鋳造し、金比羅大権現に奉納されたものです。川船の船着場に明かりを灯す常夜灯として使用されていました。
 海上交通の守り神として崇敬を集めた金比羅大権現と常夜灯、江戸時代の主要交通手段である船、どれも地域に根付いており、大切にされていたことがうかがい知れます。

文化財課指導主事 福島 忠則

写真上:金毘羅講燈籠 / 写真下:鉄燈籠

「文字入力あれこれ」

2022.1.31

 スマートフォンに買い替えた時、最初に戸惑ったのがフリック入力でした。慣れると速いと聞いていたので繰り返し使って習得しましたが、フィーチャーフォンと同じトグル入力(ダイヤルキーを複数回押す入力方法)を使う設定もあります。
 キーボードにはローマ字入力とかな入力がありますが、私の周囲はほとんどローマ字入力です。同じ配置でアルファベットも入力できるという長所がありますが、子音+母音で入力が倍になることから、慣れればかな入力の方が速いと言われています。他にも、「親指シフト」という速く打つことに特化した入力方法があり、数年前から練習しています。最初はキーを探して迷子になるのが久しぶりで、タイピングが遅い人に優しくなれます。また、入力がローマ字の半分なので手や肩の痛みが楽になりました。
 試しにいろいろな文字入力で五十音を書ききるまでの時間を計ったところ、下表のようになりました。結果は音声入力の圧勝で、精度も高く「を」もきちんと認識されていて驚きました。テレワークなど遠慮なく発声できる状況の方は音声入力も試してみるといいかもしれません。親指シフトの腕前はまだまだですが、ローマ字入力に追いつくことを目標に続けていこうと思います。

文化財課主事 兼森帆乃加
                                                     

文字入力方法 時間
音声(iPhone) 6秒
ローマ字 22秒
フリック 23秒
手書き 31秒
トグル(iPhone) 1分3秒
親指シフト 1分4秒
  表 五十音の入力にかかった時間

「生石子(おいしご)神社のプロペラ」

2022.1.25

神社 広島市安芸区下瀬野(旧下瀬野村)に生石子神社という神社があります。江戸時代の終わり頃編纂された『芸藩通志』には、石2つが御神体で、祭神は不明。伝承によれば大己貴(オオナムチ)と少彦(スクナヒコ)の2神を祀っていたと書かれています。『瀬野川町史』によれば、生石子神社は、厳島明神を祀(まつ)っており、厳島の別宮と言い伝えられ、神社の成り立ちは厳島明神誕生伝説と霊石伝説が入り混じていると書かれています。
 今回はその祭神の話ではなく、生石子神社の拝殿天井に固定されている飛行機のプロベラの話をしたいと思います。
プロペラ 神社では絵馬の奉納はよく見かけますが、プロペラの奉納はかなり異質に思えます。このプロペラは木製(一部金属を張り補強)の4枚翼プロペラで、プロペラをよく見ると刻印が読み取れます。

 ヒ式 200 HP
 愛知 NO.452
 13.428
 20ト250

 ヒ式とは、スペインで航空機のエンジンなどを製造していたメーカープロペラ拡大のHispano-Suiza(イスパノ・スイザ)のことで、HispanoのHiをとり、日本の軍隊では“ヒ式”と称しました。ゆえに、ヒ式 200 HPはイスパノ・スイザ製の200馬力(HP=Horse Power)のエンジンで使われる軍用機のプロペラであることがわかります。“愛知 NO.452”の愛知は地名ではなく、当時、航空機を製造していた「愛知時計電機株式会社」(注1)のことで、おそらく、愛知時計電機株式会社が452番目に製造したプロペラだと思われます。残りの13.428や20ト250はプロペラの何らかの数値や型式を表しているものとは思われますが、いろいろと調べてみたのですが、その意味をはっきり示す資料は見当たりませんでした。
 では、このプロペラはどんな軍用機に使われたのでしょうか?このヒ式200馬力エンジンを搭載した機体を調べてみると、大正11年(1922)第一次世界大戦後にドイツからの戦利品として、日本に持ちこまれた当時としては最新鋭機の水上飛行機ハンザ・ブランデンブルク W.29を国産化した、海軍のハンザ式水上偵察機で使用されていたことがわかりました。オリジナルの機体のエンジンはベンツ水冷直列6気筒ですが、国産化する際にエンジンを三菱内燃機製造株式会社がライセンス生産していたイスパノ・スイザ水冷V型8気筒(200馬力)へ変更したようです。機体は、大正11年から大正14年(1925)までの間、愛知時計電機株式会社と中島飛行機製作所で300機前後生産されていたようです。
 ハンザ式水上偵察機の残されている写真を見ると、プロペラは2枚翼ですが、調べてみると4枚翼のプロペラを使用した機体もあるようで、奉納されたプロペラは海軍のハンザ式水上偵察機のプロペラでほぼ間違いはないと思います。
 なぜ海軍の水上偵察機のプロペラが山の中の神社に奉納されているのか?その理由は、安芸区瀬野と東広島市志和町との境にある大谷山に、戦時中に海軍の通信関係の軍事施設(注2)が置かれていたため、海軍が奉納したと伝わっています。
 当然、現役のプロペラを神社に奉納することは考え難いので、旧式になり使わなくなったプロペラをなんらかの記念に持ち込んだのではないでしょうか。

注1  愛知時計電機株式会社は、明治26年(1893)に愛知時計製造合資会社として設立され、明治31年(1898)社名を愛知時計製造株式会社に改め、さらに明治45年(1912)に愛知時計電機株式会社と改称しました。航空機の製造は大正9年(1920)から始め、昭和18年(1943)には航空機部門を独立させ愛知航空機株式会社を誕生させています。
注2 戦時中、大谷山は海軍山とも呼ばれ、昭和24年(1949)の参議院の答弁書(内閣参甲第129号)によれば、西志和海軍見張所が置かれていました。


文化財課主幹学芸員 秋政 久裕

写真上:生石子神社 / 写真中:拝殿の天井に固定されているプロペラ / 写真下: プロペラ刻印の部分拡大

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