WEB博物館企画展第2弾
学芸員のおススメ出土品展

 発掘調査-それは時に“予想外な過去”との遭遇です。
 広島市内では、これまでに数多くの遺跡の発掘調査が行われてきました。そこで得られた郷土の歴史を物語る貴重な出土品の数々が、当課の収蔵庫にあります。
 そこには、ときに調査員を悩ませ、ときにささやかな過去の一コマをものがたり、そして、ときに新たな歴史発見につながった「珍品」「逸品」がぎっしり。
 今回の企画展は、その中から当課の職員(仮称A~F)がそれぞれの視点で選んだ「おススメ」の品々を紹介し、皆さんに「驚き」や「感動」をともに味わっていただくことで、歴史への興味を一層深めていただこうとするものです。

※各遺跡の概要については遺跡名をクリックして下さい。

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Aのおススメ

休日は買い出しと昨年誕生した長女の育児で過ごします。子どもの笑顔を見ると、仕事のつかれもいやされます。


 鉄鏃形鉄製品(てつぞくがたてつせいひん)

(下は出土した時の様子です)

  出土遺跡名 弘住遺跡(こうずみいせき) 第3号古墳
  遺跡の所在地 安佐北区口田南
  遺物の時期 古墳時代前期
  遺物のサイズ 全長18.7㎝(復元推定長19.0cm) 最大幅9.1㎝
  遺物について  弘住第3号古墳の竪穴式石室から出土しました。大型の鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を思わせるこの鉄製品は、先端側ではその形に沿って7つの孔があけられ、中央部には透かしがあります。また、透かし部分や下側には逆刺(さかとげ)がつけられています。刃は鋭く仕上げられているものの、実用品というよりは何らかの儀式のために用いた道具と考えられています。
 
ここがおススメ
 この古墳の石室からは、この他にも土師器(はじき:弥生土器の流れをくむ素焼きの土器)や、鉄鏃、鉄斧(てっぷ:鉄のおの)、やりがんななどの鉄製品が出土しています。出土した普通の鉄鏃が6~7cm程度の長さしかないのに対して、この鉄製品は約3倍の長さがあり、大きさや形ともにまさに特別品といった感があります。


 首飾り



  出土遺跡名 新宮古墳(しんぐうこふん)
  遺跡の所在地 安芸区船越
  遺物の時期 古墳時代後期
  遺物のサイズ 長さ2.8㎝ 幅1.2㎝(勾玉)
  遺物について  新宮古墳は海田湾を見渡す標高25mの高台にあり、古墳時代後期の6世紀中頃につくられた横穴式石室を持つ円墳です。この首飾りは玄室(げんしつ:横穴式石室の奥側の遺骸を納めた部分)の、遺骸の頭部側にあたる敷石の下から出土しました。ひすい製の勾玉(まがたま)1個のほか、水晶製の切子玉(きりこだま)5個、ガラス製の丸玉40個、ガラス製の小玉105個が、もと2連状の首飾りだったことをうかがわせる状態で見つかりました。この他、別の位置から銀環(銀製の環の形をした装飾品)3点とガラス製の丸玉ならびに小玉1点ずつなども見つかっています。
 
ここがおススメ
 ひすい製の勾玉は神聖な意味を持つ装身具=アクセサリーとして、この首飾りでも中心となる玉として使われていたと推定されます。かつて、この古墳に葬られた人の胸に、ひすいの緑色はとても神秘的に輝いていたことでしょう。

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 コラム1 復元石棺




(下は発掘当時の様子です)

  出土遺跡名 成岡A地点遺跡(なりおかえーちてんいせき) 第2号古墳
  遺跡の所在地 安芸区中野東
  時期 古墳時代初頭
  サイズ 石棺内部:長さ180㎝ 最大幅59㎝ 深さ50㎝
  説明  石棺とは、石を組み合わせてつくったお棺のことです。この石棺には、人骨がとても良い状態で残っていました。葬られた人物は60歳以上の男性で、身長は161.5㎝と推定されています。また、頭骨のおでこの位置に赤色顔料が塗られていました。この石棺を文化財課の入り口付近に復元したものです。
 
ここがおススメ
 この石棺を見る時、古墳時代の広島にもたしかに人々の生活があったのだなあと感がい深いものがあります。身近に古墳時代のことを想像させ、考えさせてくれる石棺です。


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Bのおススメ

学生時代、考古学サークルの友人を物好きなことだねと思っていた私も文化財課に在籍して十何年。考古学の「こ」の字くらいは見えてきたような・・・現在は、調査から二年越しの報告書が完成し、ホッと一息ついております。


 子持台付壺(こもちだいつきつぼ)?


(下は似たタイプの装飾須恵器を参考
にもとの姿を復元した想像図です)

  出土遺跡名 上ヶ原遺跡(うえがはらいせき)
  遺跡の所在地 安佐北区可部町
  遺物の時期 古墳時代後期
  遺物のサイズ 胴部最大径16.4cm 鍔状突帯部最大径21.6cm(ともに復元値)
  遺物について  広島市内でも特に多くの古墳が集まる可部古墳群の一部、上ヶ原古墳群を見おろせる丘の上で、破片の状態で出土しました。完全な形には復元できませんでしたが、へんぺいな球形の胴に鍔状突帯(つばじょうとったい)と呼ばれる帯が貼り付いてめぐるものになりました。本来、この球形の胴に長い頸(くび)と脚がついた壺だったと考えられます。また、突帯部分の下には支脚が、上には小さな高坏(たかつき)と考えられる器の脚がついていました。突帯に残された、こうした支脚と器がはがれた痕跡の間隔から、本来は8か所に支脚がつき、それぞれの支脚の上に突帯をはさんで小さな高坏がついていたと考えられます。
 
ここがおススメ
 壺などの肩や突帯に、動物、人物、小さな器などを付けるといった装飾を持つ須恵器のことを装飾須恵器と呼びますが、広島県内ではこれまでに芦田川上流域や、江の川支流の馬洗川水系に沿って、世羅台地を中心に出土しています。また、この遺物に似たタイプのものは、沼田川流域の三原市本郷町の御年代古墳(みとしろこふん)、太田川支流の三篠川上流沿いで、江の川の支流にも近い安芸高田市向原町の千間塚古墳(せんげんづかこふん)、馬洗川流域の三次市吉舎町から出土しています。この遺物は県内では最西の出土例となるもので、これらの他の地域との関係を考えさせるものです。



 把手脚付短頸壺(とってきゃくつきたんけいつぼ)




  出土遺跡名 池の内遺跡(いけのうちいせき) 第3号古墳
  遺跡の所在地 安佐南区長束西
  遺物の時期 古墳時代中期
  遺物のサイズ 復元高19.5 ㎝ 口径9.3㎝ 胴部最大径15cm 脚端部径11㎝
  遺物について  池の内第3号古墳の埋葬施設の上から出土しました。短い頸(くび)を持つ胴に脚が付き、何より特徴的なのは大きな把手(とって)が付くことです。また、突帯(とったい)と呼ばれる帯を貼り付け、器の表面を区画し、文様などで装飾しています。
 
ここがおススメ
 須恵器(すえき)の製作方法が朝鮮半島から日本に伝わってきた頃、現在の大阪府南部に産地がありました。この遺物は使われていた粘土の分析から、そこで作られて広島にやってきたものである可能性があり、この地の有力者と畿内地域との関係を考えさせるものです。という理由もありますが、何よりこの形を見て、成人の方でビールジョッキを連想しない人は少数では。当時の人は、ビールは無かったので、これでおいしいお酒を飲んでいたのではと想像がふくらむのです。

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Cのおススメ
 
歴史と自然と旅が大好きです。現代とは異なる環境の中で生き、感じ、考えた人々の残した文化財と語り合うことで、思いがけない発見や感動をともに味わっていただければと思います。


 仏花瓶(ぶっかびん)



  出土遺跡名 北谷山城跡(きたたにやまじょうあと)
  遺跡の所在地 東区温品
  遺物の時期 南北朝~戦国時代
  遺物のサイズ 残存部最大径7.0㎝
  遺物について   北谷山城跡でもっとも高い標高91.5mの第1郭(かく:建物を建てたり兵を配備するため平坦にけずったところ)から、北に約5m下がった第2郭で出土しました。上下の部分は欠けています。真ん中のふくらんだ部分に円形の突起の様な飾りが6か所はり付けられ、他にも雷文(らいもん)や巴文(ともえもん)などで装飾されています。
 
ここがおススメ
 北谷山城は南北朝~戦国時代の山城と推定され、金子氏、温品氏といった温品地区ゆかりの武士が城主だったと考えられます。中世の山城跡は市内にも数多く残りますが、戦いに備えてつくられた施設のため、発掘調査では普段の暮らしを物語る出土品はそう多くありません。そうした中、時にこうした花瓶や香炉といった仏具が出土することがあります。山城の中で仏に祈りを捧げていたのでしょうか?戦乱の世を生きた当時の広島人の心を感じさせてくれます。


 人形頭部〔男雛・女雛(おびな・めびな)〕



(右が男雛、左が女雛)

  出土遺跡名 広島城跡法務総合庁舎地点(ひろしまじょうあとほうむそうごうちょうしゃちてん)
  遺跡の所在地 中区上八丁堀
  遺物の時期 江戸時代前期
  遺物のサイズ 男雛/高さ10.9㎝ 最大径4.5㎝、女雛/高さ9.6㎝ 最大径3.2㎝
  遺物について   江戸時代でも早い時期の1650年代頃までに使われていたと考えられる、当時は水をたたえていた可能性がある大きな土坑(どこう:土を掘った穴)から出土しました。木製で、おそらく一対の男雛と女雛の頭部と考えられます。
ここがおススメ
 雛人形の出土は広島城関連の遺跡でも初めての例です。しかも、男雛と女雛のものがセットで出土したのはとても幸運です。雛人形が今日の姿に近づくのは江戸時代からですが、この男雛には頭と冠を一つの木からけずり出してつくるといった古い特徴が見られます。また、顔はごく簡単に目鼻を表現するぐらいで、全体的にとても素朴な印象です。胴体から下が失われていることは残念ですが、当時の広島城内の武家屋敷の生活を知る上で興味深い資料です。


 ヨーヨー〔手車(てぐるま)〕


(下は文様や形状の実測図です)

  出土遺跡名 広島城跡法務総合庁舎地点(ひろしまじょうあとほうむそうごうちょうしゃちてん)
  遺跡の所在地 中区上八丁堀
  遺物の時期 江戸時代
  遺物のサイズ 直径5.3㎝ 幅2.9㎝
  遺物について   広島城の東側の外堀(八丁堀)近くの溝から出土しました。土師質土器(はじしつどき:素焼きの土器)で、傘状の円盤と軸からなる部品2つを、軸でつないで作られており、その軸部分は中空です。円盤部分の表面は型にはめて葉や芽の文様を表し、茶や青の彩色がところどころに残っています。
 
ここがおススメ
 ヨーヨーが中国から日本に伝わったのは意外に古く、江戸時代中期のことです。当初は「手車」と呼ばれていました。京都や大阪では土製のものが売られていたそうですが、これもまさしく土製です。広島城関連の遺跡で初めて出土したヨーヨーであり、この遺跡でもこれ1点のみ。調査担当者もはじめ「なんだろう、ヨーヨーみたいだなぁ…」と首をかしげていましたが、本当にヨーヨーと知って二度びっくり。ヨーヨーをくるくる回して楽しんでいた当時の人々が、とても身近に感じられます。 


 広東碗(かんとんわん)




(下は目痕部分の拡大です)

  出土遺跡名 広島城跡法務総合庁舎地点(ひろしまじょうあとほうむそうごうちょうしゃちてん)
  遺跡の所在地 中区上八丁堀
  遺物の時期 江戸時代後期
  遺物のサイズ 口径10.3㎝(復元値) 底径4.6㎝ 高さ5.9㎝
  遺物について   溝状に掘られた遺構から出土しました。器の形が底部から上に向かって直線的に外へ開く、広東碗と呼ばれるタイプです。
 
ここがおススメ
 広東碗は江戸時代も半ばを過ぎた1780年頃に現れ、その後流行していったものです。こうしたタイプの碗は広島城跡関係の遺跡でも数多く出土し、けっして珍しいものではありません。しかし、調査担当者は、この広東碗の内側の底に残された4か所の目痕(めあと:窯の中で焼き物を重ねて焼くとき、上下の焼き物が溶けたうわ薬でくっつかない様、その間に挟んでおく道具の足のあと)などの特徴が、江波焼の窯跡と推定されている場所で見つかった広東碗と共通することに気付きました。江波焼とは、現在の広島市中区江波で1828(文政11)年から1872(明治6)年頃にかけて焼かれた、残された資料が少ないいわば“幻の焼き物”です。これらを科学分析したところ、イットリウムという物質を含む割合が伊万里、瀬戸、砥部といった有名な他の産地のものより2~3倍高いことも分かりました。江波焼の焼き物を他の産地のものと区分する手がかりになるのではと期待されます。

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 コラム2 復元石棺






(下の2枚は発掘当時の様子です)

  出土遺跡名 大町七九谷C地点遺跡(おおまちしちくだにしーちてんいせき)
  遺跡の所在地 安佐南区大町
  時期 弥生時代後期
  サイズ 石棺内部:長さ84㎝ 幅27㎝ 深さ30㎝
  説明  大町七九谷C地点遺跡からは、81基の墓が見つかっています。その中の17基は石棺墓です。この石棺は、その大きさから子どもの墓と推測されます。この石棺を文化財課の入り口付近に復元したものです。
 
ここがおススメ
 子ども用と見られるこの石棺を見ると、当時の生きることの厳しさを感じることができます。当時の親たちはどんな気持ちで、子どもを見送ったのでしょうか?実感すること、当時の人々の立場に立って考えることが歴史を学ぶときに大切なことなんだろうと思います。

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Dのおススメ

現場が大好き、報告書作成が…な文化財課唯一の30代。しかし、肉体年齢は最長老。


 ミニチュア土器


  出土遺跡名 長尾遺跡(ながおいせき)
  遺跡の所在地 東区戸坂
  遺物の時期 弥生時代終末
  遺物のサイズ 器高2.5cm 口縁部径3.6cm
  遺物について  竪穴住居跡の床面近くから出土しました。通常の大きさの土器を模して作ったミニチュアサイズのてづくね土器です。
ここがおススメ
 ミニチュア土器は他の遺跡からも出土していますが、この土器は中でもとにかく小さい!内側のくぼみも小指の先が入るかどうかといった具合。家の中から出てきたので、ままごとにでもつかったのでしょうか?ということは、この竪穴住居跡には若夫婦と幼児が住んでいたのか…、想像に尽きないです。


 手焙形土器(てあぶりがたどき)




  出土遺跡名 大町七九谷A地点遺跡(おおまちしちくだにえーちてんいせき)
  遺跡の所在地 安佐南区大町
  遺物の時期 弥生時代終末頃
  遺物のサイズ 器高17.3cm 胴部最大径18.1cm
  遺物について  炭火で暖をとる小型の手焙火鉢に形が似ていることから手焙形土器とよばれており、弥生時代後期から古墳時代初頭のわずかな期間にかけて作られた土器です。出土数が少ないこと、内面にわずかなススや炭化物がついているていどのことが多いことから、暖をとる道具ではなく火を用いたお祭りに使ったものと考えられています。
 
ここがおススメ
 全国的にも出土数の少ない土器で、市内でもわずかしか出土していません。どこかユーモラスでおしゃれな形をしていると思います。

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Eのおススメ

文化財課で仕事を始めて早6年。考古学に縁のなかった私ですが、古代のものづくりや体験を通して、その知恵や技術の高さに触れ感動!当時の人々や暮らしがぐっと身近に感じられるようになりました。たくさんの人に同じ感動を味わってもらえるとうれしいです。


 玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)



(点線は欠けた部分のもと
の形を推定したもの)

  出土遺跡名 寺山遺跡(てらやまいせき)
  遺跡の所在地 安佐南区山本
  遺物の時期 縄文時代前期
  遺物のサイズ 長径5.9㎝ 短径5.1㎝ 中央の孔径1.45㎝
  遺物について  玦状耳飾りは、主に縄文時代前期から中期にかけて流行した装身具=アクセサリーです。この耳飾りは頁岩(けつがん)またはチャートと見られる石をけずって作られています。横長の楕円形で、中心にあけられた孔から下端に向かって切り込みが入れられています。耳たぶにあけた孔に通してさげた、現代のピアスのようなものです。
 
ここがおススメ
 装身具の歴史は古く、一万数千年前の後期旧石器時代には、動物の骨や貝などを使った首飾りが作られていたことが分かっています。耳飾りは髪飾りや腕輪などとともに縄文時代に登場します。
 これを初めて見たときは「こんな大きなものを耳に突き刺すの~!」とびっくり。耳たぶの孔は時間をかけて引き伸ばし、段々大きくしていったようです。
 単なるおしゃれのためのものなのか…、呪術的な意味あいがあるのか…、はたまた選ばれた人しか付けることができなかったお宝だったのか…。未だ解明されていない謎が多いのも魅力です。

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F(コラム)

20数年間の中学校勤務から、新しい仕事をすることとなり職場の皆さんに迷惑ばかりかけています。でも、新しい世界で、今まで知らなかったことに出会うことも多くあり、新鮮な気持ちになります。


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