WEB博物館企画展第7弾
学芸員のおススメ出土品展 PART2

 広島市内では、これまでに数多くの遺跡の発掘調査が行われてきました。そこで得られた郷土の歴史を物語る貴重な出土品の数々が、当課の収蔵庫にあります。
 今回の企画展では、「企画展第2弾」で好評だった「学芸員のおススメ出土品展」PART2と題して、学芸職員9名が独自の視点で「これ!」と力をいれて紹介したい「逸品」「珍品」を紹介します。
 さまざまな時代の「おススメ」の出土品を通して、新たな歴史の世界をお楽しみください。

※職員の顔をクリックすると直接その職員の「おススメ品」に飛びます。




ワシのおススメ

20代の頃の似顔絵ですが、はや40歳に突入。目のピントも合わなくなり、実測がつらいです。


 弥生時代の桃の種





  出土遺跡名 三谷遺跡
  遺跡の所在地 安芸区中野東
  遺物の時期 弥生時代後期
  遺物のサイズ 長さ19mm 幅17mm
  遺物について  掘立柱建物跡の柱穴の中から出土した桃の種です。通常木材や種子などの有機物は、長い年月の間に腐ってしまいますが、この種は何らかの原因で炭になったことで腐らずに残っていました。
 
ここがおススメ
 この時代の桃は現在の桃と違って、スモモや梅サイズの小さなものでした。この種子も今の桃の種と比べるととても小さく、出土した時は「梅干しの種?」って思いました。科学分析では、種子に空いている穴が、月歯目(いわゆるネズミ)にかじられた痕であることもわかりました。

 コシキ形土器


(横から)


(下から)

  出土遺跡名 トンガ坊城遺跡 
  遺跡の所在地 安佐北区上町屋
  遺物の時期 古墳時代初頭
  遺物のサイズ 狭口部径9.2cm 広口部径32.8cm 器高63.4cm
  遺物について  コシキ形土器とは、蒸し器である「甑」に似た形をしていることから名づけられた土器です。メガホンのような円筒形で底がなく、多くは外側に把手が付いています。弥生時代の終わりから古墳時代の初めにかけての極めて短い期間にしか作られておらず、出土数も1遺跡から1個出るかでないかという頻度のため、いまだに何の用途に使ったのか、どちらが上か下かさえわかっていない謎の土器です。
 
ここがおススメ
 このコシキ型土器は、全国でも他に類例がない牛角状の把手が7つも付いています。ただでさえ謎なのに、気になるやつです。広島市内のコシキ型土器は他にも変わったものが多いですが、それは次の機会に。

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俺のおススメ

文化財課のマスコットキャラクター「モグリン」を普及させる特殊任務に従事しています。


 はそう




(はそうで注ぐ様子)

  出土遺跡名 上ヶ原遺跡(うえがはらいせき)
  遺跡の所在地 安佐北区可部町
  遺物の時期 古墳時代後期
  遺物のサイズ 口径9.6cm 胴部最大径9.5cm 器高11.4cm
  遺物について  はそうは、側面の穴に竹の管などを差し込んで、液体を注ぐのに使った器と考えられています。このはそうは、上ヶ原第34号古墳の埋葬施設床面から、ほぼ完形で出土しました。表面にはロクロを使用して製作した跡が見られます。
 
ここがおススメ
 私はこの形を見て、理科で習った「減圧(吸引)ろ過」の実験を思い出し、何かをろ過するのに使った道具ではないかと考えてみました。おもしろい形をした『はそう』だけに、新しい『はっそう(発想)』で、いろいろな用途を考えて、古代の人々の生活を想像してみると楽しいです。


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ワシのおススメ

どんなときでも駄洒落のオンパレード。忙しいときでも笑いを怠りません。もちろん仕事も並行?して進めています(上司・同僚は閉口)。


 大久保遺跡の壷







  出土遺跡名 大久保遺跡 
  遺跡の所在地 安佐北区口田
  遺物の時期 弥生時代後期
  遺物のサイズ 口径8.8cm、胴部最大径16.6cm、器高推定で24.2cm
  遺物について  大久保遺跡は弥生時代の集落跡・墳墓群からなる遺跡で、この土器は墳墓群から見つかりました。弥生土器には日常生活で使用するための土器もありますが、この土器は当初から墓に供える目的で作られたものと考えられています。
 
ここがおススメ
 初めてこの壷を見たときから、その美しさに一目ぼれをしました。その美しいプロポーション、表面をかざる文様は細く作られています。そうした部分のすばらしさもさることながら、その土器の極限までの薄さにびっくりです。土器作りの事業をしていて、ここまでの薄さ(それも均等)で作るのは至難の業であることを身をもって体験しました。何拍子も揃った傑作品を作った方は弥生の人間国宝です。

 青花皿




  出土遺跡名 広島城外堀跡紙屋町・大手町地点
  遺跡の所在地 中区紙屋町一丁目
  遺物の時期 18世紀前半~中葉
  遺物のサイズ 底径推定で12.6cm
  遺物について  現在の紙屋町地下街(シャレオ)を開発する前に、広島城の南側の外堀の発掘調査を行いました。その外堀の中から出土した出土品です。18世紀にはすでに磁器の国産化が進んでいましたが、この皿は中国からの輸入品の青花(染付)皿です。
 
ここがおススメ
 なんといっても磁器の産地として中国で一番有名な景徳鎮産の磁器だけあって、その発色は美しいです。それより注目ポイントは皿に描かれたデザインです。見ただけで日本でない、エキゾチックな気分にいざなう楼閣山水の世界がこの皿一枚で楽しめます。この皿の持ち主であったのは上級武士でしょうが、見たことのない中国に思いをはせたのでしょうか・・・

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私のおススメ

考古学に縁のなかった私ですが、様々な文化財に触れ、その知恵や技術の高さに感動!当時の人々の暮らしをぐっと身近に感じられるようになりました。たくさんの人に同じ感動を味わってもらえるとうれしいです。


 円筒埴輪片





  出土遺跡名 狐が城古墳
  遺跡の所在地 安芸区矢野西
  遺物の時期 古墳時代中期(5世紀)
  遺物のサイズ 最大長:約17cm、最大幅:約15cm、厚み:約1cm
  遺物について  墳丘の西側を中心に大量の埴輪片が見つかりました。写真上の円筒埴輪片は、表面に断面が台形状のタガ状突帯(埴輪に巻いて貼り付けてある粘土の帯)が2本と、下側中央に円形の透かし孔の一部を確認することができます。この古墳の円筒埴輪は、概ね器高が35~50㎝で、突帯を2~3本有し、口縁部にむかって広がる形をしていたと考えられます。
 
ここがおススメ
 海田湾を見下ろす丘陵上では多数の古墳が確認されています。なかでも狐が城古墳は推定直径約31mと、円墳としては市内最大級の規模を誇ります。後の時代に削られたため、埋葬施設や副葬品は見つかりませんでした。しかし、広島市では珍しい大量の円筒埴輪片や家形埴輪の一部、墳丘を覆っていた葺き石の一部が出土し、この古墳の主が強い力でこの地域を治めていた人物であることを物語っています。

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私のおススメ

文化財課の生き字引。発掘現場に行きたくて、うずうずしています!


 椀形高坏




  出土遺跡名 国重城遺跡
  遺跡の所在地 安佐南区沼田町伴
  遺物の時期 古墳時代初頭
  遺物のサイズ 口径12.3cm、現高9.0cm(坏高5.0cm)
  遺物について  確認された家2軒のうちのひとつから出土しました。椀形の坏部に低い脚部が付く高坏です。脚部には円形の透かしが4つあけられています。精選された粘土が使用され、器壁も薄く、焼き上がりも非常に堅緻です。また、丁寧に磨きあげられ、ちょっと光沢を帯びています。何らかの祭祀に使用されたものと考えられます。
 
ここがおススメ
 このような形をした土器は広島にはありません。現在の奈良を中心とした大和地方によく見られるもので、かの地から広島へ持ち込まれたものと考えられます。どうして伴地区からなのかについてはよくわかっていませんが、首長レベル以外で、古墳時代のはじめ、日本の中心となる大和地方と広島の交流を物語るモノが出たことはとても重要と言えます。ところで、当時の広島の家は4本柱がメインなのですが、この遺跡の家は2軒とも2本柱となっていて、ひっとするとこうしたことと関連があるのかもしれません。

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俺のおススメ

文化財課に異動してきて一年目ですが、やたらとミズラ髪や短甲など古代のモノが似合います。もはや古代の王にしか見えません(某職員談)。


 轡(くつわ)




  出土遺跡名 和田1号遺跡 
  遺跡の所在地 佐伯区利松
  遺物の時期 古墳時代後期
  遺物のサイズ 引手(ひって)の長さ157mm、二連式の銜(はみ)の長さ90mm
  遺物について  和田1号遺跡にある和田古墳から出土した鉄製の轡で、環状の鏡板の特徴から6世紀末~7世紀初頭のものと思われます。
 
ここがおススメ
 轡は人の意思を馬に伝える重要な道具で、馬の口の中に入れてかます銜と、銜の先に取りつけられて手綱を連結する引手と、銜の両側に取りつけられて銜の脱落を防ぐ鏡板によって構成されています。古代の馬は木曽馬や御崎馬などいわゆる在来馬に近いものと推測されており、轡の大きさからも現在競走馬として活躍しているサラブレッドより一回り小さな体格であったことが想像できます。


 石碑




(北清事変記念碑の絵葉書)

  出土遺跡名 広島城跡八丁堀地点
  遺跡の所在地 中区八丁堀
  遺物の時期 近代
  遺物のサイズ 縦160mm×横280mm×厚さ35mm
  遺物について  出土した場所はかつて北清事変記念碑が存在した付近であり、碑文から「陸軍」「第五師団」等の文字も読み取れることから記念碑の一部と思われます。
 
ここがおススメ
 北清事変記念碑は、明治39年(1906)に西練兵場の東端(京口門付近)に建てられました。碑柱、台石ともに花崗岩製で高さは約14m、台石前方には両翼を広げた金鵄(きんし)、下方には武装兵士の銅像が置かれていました。台石正面には各国の将卒を鋳出した銅像、他の三方には石をはめ込み、戦病死者の名が刻まれました。原爆により上部の碑柱は失われましたが、台石部分は戦後もしばらくの間は残っていました。出土した石碑の一部は、戦前の広島の歴史を物語る貴重な遺物といえます。

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ワシのおススメ

文化財課のアニキ。現場でのサングラスがトレードマーク。でも見た目ほど怖くありません(某職員談)


 管玉(未完成品)



  出土遺跡名 三谷遺跡 
  遺跡の所在地 安芸区中野東
  遺物の時期 弥生時代後期後半
  遺物のサイズ 長さ約11mm 太さ約7mm
  遺物について  この管玉は未完成品で、砥石で荒く形を整えた後、穴をあける作業中に縁が割れてしまったようです。出土した竪穴住居跡からは「錐(キリ)」状の鉄製品も出土していることから、この玉はこの建物で加工された可能性が考えられています。
 広島市域で出土した玉類は、島根県など他地域で作られた完成品が持ち込まれたと思われてきましたが、広島市域でも玉作りが行なわれていたことを示す大変興味深い資料です。
 
ここがおススメ
 この管玉は穴あけに失敗していますが、そもそも穴の位置が中心からはずれて、縁ぎりぎりです。さらに、失敗した穴以外にも3ヶ所穴をあけようとした跡が残っています。はっきり言って、下手くそです。とても売り物になるとは思えません。
 だが、そこがイイ。ピカピカの完成品とは違い、荒磨きの跡や欠けが残る未完成品は、作り手の作業の様子や、作っているときの表情が浮かんでくるのです。


 骨鏃形鉄鏃(完形品15点、破片4点)






  出土遺跡名 成岡第3号古墳 
  遺跡の所在地 安芸区中野東2丁目
  遺物の時期 古墳時代初頭
  遺物のサイズ 全長58.5mm 刃部長37.7mm 刃部幅10.5mm(いずれも平均値)
  遺物について  骨鏃形鉄鏃は、刃部の断面が「へ」の字形をしているのが特徴です。動物の骨から作られた鏃(骨鏃)に良く似ているので、この名前がついています。この形の鉄鏃は、現在のところ国内では2例しか類例が無い大変珍しいもので、朝鮮半島で作られた輸入品だと考えられています。
 
 
ここがおススメ
 保存状態が大変よく、矢柄と鏃を固定した樹皮が残っていたものもありました。さびているにもかかわらずシャープなイメージで、造られたころの鋭利な様子がうかがえます。柳葉式や定角式といった同時代の鉄鏃に比べてスマートな印象で、カッコいいんです!(他のタイプの鉄鏃ファンの方、ごめんなさい)


 輸入銅銭




  出土遺跡名 池田城跡
  遺跡の所在地 佐伯区城山
  遺物の時期 中世
  遺物のサイズ 直径24mm~25mm
  遺物について  中世(鎌倉時代~戦国時代)になると、日本でも本格的にお金が使われるようになります。しかし、当時の朝廷や幕府に貨幣を製造・流通させる能力は無かったため、海外から銅銭が大量に輸入され、使われました。
 広島市域でも発掘調査された山城跡から輸入銅銭が発見されており、当時の経済活動を教えてくれます。
 
ここがおススメ
 発掘調査をしていると「お宝は出たかいの?」と聞かれることがあります。「いえいえ、このきちゃなげな土器のかけらでもお宝ですよ」と説明するのですが、そういう我々もやっぱり玉や刀などわかりやすい遺物が出土すると、テンションがあがります。
 銅銭もそんな出土品のひとつです。特に池田城跡から出土した銅銭は残りがよいものが多く、とても5百年以上前(開元通宝は1千年以上たってるかもしれません)のものとは思えないほどです。

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私のおススメ

教科書にある中央から見た日本史に慣れてしまっていたのですが、文化財課にきて、広島からの日本史が見られるようになりました。
得意技は人間ドック直前の無理なダイエットです。(今年も優良な成績でした。)


 重圏文軒丸瓦、重郭文軒平瓦



  出土遺跡名 中垣内遺跡 
  遺跡の所在地 佐伯区三宅
  遺物の時期 奈良・平安時代
  遺物のサイズ 重圏文軒丸瓦(直径16.4cm)、重郭文軒平瓦(全長不明)
  遺物について  この瓦は五日市観音小学校のすぐ上の中垣内遺跡から見つかりました。中垣内遺跡は古代山陽道の駅跡など国の役所跡か、寺院跡であると考えられています。遺物は、同じく奈良時代の役所の跡と言われている下岡田遺跡(安芸郡府中町)出土瓦と同形式のものです。 
 
ここがおススメ
 仏教の伝来とともに、飛鳥・白鳳時代に壮大な寺院群が出現しました。なかでも屋根一面に整然と葺かれた瓦は見る者を圧倒し、仏教の普及にも影響を与えたようです。瓦は耐火性もある当時の最高技術品でした。奈良時代に国分寺や役所の建設等によって、瓦の技術が日本国中に広まりました。中垣内遺跡の瓦の発見によって、奈良時代に瓦ぶきの建物が広島市にもあったことが分かりました。


 すり鉢(備前焼)




三ツ城のすり鉢のすり目


池田城のすり鉢のすり目

  出土遺跡名 三ツ城跡 
  遺跡の所在地 安芸区瀬野西
  遺物の時期 室町時代(約600年~500年前)
  遺物のサイズ 口径31.2cm(推定)、底径14.2cm(推径)、器高12.9cm
  遺物について  三ツ城跡は、みどり坂団地の造成に伴って発掘調査されました。今の瀬野西四丁目付近に当たります。このすり鉢は第2郭北西側から見つかりました。ロクロで成形後、内外面共ナデ調整を施してあります。ずいぶん使い込んだようで、内面に使用痕が著しくカキ目が消えかけた部分が見られます。
 
 
ここがおススメ
 すり鉢は、古くは6世紀の窯跡から須恵器のものが出土しています。室町時代に入って石臼が普及したことにより、すり鉢は製粉道具から調理道具としても広く使われました。すり鉢は硬い焼物が適しており、備前焼が最上のものとされました。室町時代には「蒲鉾」(かまぼこ)や「ふくめ」、「浮煎」(うけいり)など、すり鉢によって作られた料理が数多く見られるようになりました。すり鉢は日本料理を発展させた道具の一つで、世界文化遺産「和食」の原点なのかもしれません。


 山水紋の土瓶(富士山と三保の松原の絵)







  出土遺跡名 広島城跡太田川河川事務所地点
  遺跡の所在地 中区八丁堀
  遺物の時期 1810年以降幕末まで
  遺物のサイズ 口径6.2cm 器高8.1cm 底計6.1cm 胴部最大径10.2cm
  遺物について  廃棄土抗から見つかった関西系の色絵磁器です。火にかけたのか、底に焦跡があります。中世には、磁器製品は中国や朝鮮半島から多く輸入された高級品でした。17世紀には肥前地域で独占的に生産がおこなわれます。19世紀になると、瀬戸・美濃地域において磁器生産に成功し、幕末頃には各地で磁器の焼成が行なわれるようになり、安価な磁器が普及するようになりました。
 
ここがおススメ
 この土瓶には、世界文化遺産の「富士山」と「三保の松原」が描かれています。三保の松原は白砂青松と霊峰富士の眺望の素晴らしさで、万葉の昔から全国に知られ、多くの絵画に描かれ、歌にも歌われています。この土瓶を使っていた広島の上級武士一家は富士山にどんな思いを巡らせていたのでしょうか。

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私のおススメ

沢山ある遺物の一つ一つに色々なエピソードがあるんだなぁと驚きます。まだまだ知らないことが多いですが、みなさんに少しずつでも紹介していけるといいなと思っています。


 籾痕土器




  出土遺跡名 大町七九谷遺跡群(A地点遺跡)
  遺跡の所在地 安佐南区大町
  遺物の時期 弥生時代終末から古墳時代初頭
  遺物のサイズ 最大長 約7.7cm 最大幅 約7.8cm
  遺物について  弥生時代終末から古墳時代初頭にかけての住居跡が確認された大町七九谷A地点遺跡からみつかりました。もとの形状は不明ですが、形状から鉢形土器の一部ではないかと考えられています。表面に籾(お米)の痕がはっきりと確認できます。
 表面はきれいに整形してあることから、形を整えた後、乾燥させる間に籾がついたようです。
 
ここがおススメ
 広島市内の遺跡からは今のところ水田跡は見つかっていませんが、この籾痕のついた土器片や、同遺跡から出土した鉄製の「摘鎌(穂摘み具)」や周辺の遺跡から出土した「石庖丁(穂摘み具)」(安佐南区毘沙門台東遺跡出土)、「炭化したお米」(安佐北区梨ヶ谷遺跡出土)などにより、広島でも米作りが行われていたことがわかります。
 一生懸命作った土器に籾の痕がついているのを見つけたとき、当時の人も「やっちゃったよ~」と言っていたのでしょうか…?
 土器製作の作業をしているすぐそばにお米があったことがうかがえる、生活感あふれる遺物です。

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過去の企画展
第6弾 平成25年度「広島の名所・旧跡今昔」
第5弾 平成24年度「ひろしまのお宝~広島重要有形文化財考古資料編~」
第4弾 平成24年度「ひろしま考古生き物図鑑」
第3弾 平成23年度「おしゃれの考古学~出土したアクセサリー展」
第2弾 平成23年度「学芸員のおススメ出土品展」
第1弾 平成22年度「発掘ロマンINひろしま~発掘調査速報展」